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放課後の賑わいも去り、閉店間際の鉱石倶楽部は常連客を一人残すのみ、ひっそりと落ち着いた空気が流れている。
店番の工科大学の学生は懐中時計に目をやり時刻を確かめると、帰り際に珈琲を飲んで行く老紳士のためにいつも通り準備を始めた。薬罐を火にかけ、焙煎しておいた豆をミルで挽く。
辺りに珈琲の香薫が漂ってくるころ紳士は、眺めていた硝子戸棚から離れ、二階の欄干に手を掛けながら急勾配な階段を、杖を突いてゆっくりと降り天台の方へ歩いて来る。
真鍮の把手を回す音に二人が顔を向けると、すんなりとした細身の青年が扉を開けて入って来た。彼は店番の方を見ようともせず、天台へ鞄を置くと、外套を脱いで回転椅子の背に掛けた。
「何か食べる、」
店番はそう言いながら濾過器に珈琲豆を挽いたものを入れ薬罐を傾けゆっくりと湯を注いだ。
「いらない」
青年が不機嫌そうに椅子へ腰掛けたのを見て思わず小さく溜め息をつく。
「ご馳走さま」
気が付けば老紳士は席を立ち、帰り支度をしていた。頭に被った帽子の縁を指で持ち上げて挨拶を寄越す。店番が会釈を返すと
「大変そうだ」
と肩を叩いて帰って行った。
青年は銅貨の兄で藍生という。高等級になってからも筆記帳を広げに度々鉱石倶楽部を訪れた。外套を脱いだ姿は、制服のズボンだけが元のままで上衣の代わりに濃紺の厚手のセーターを着ている。ネクタイは外し、襯衣の釦を開けて開襟にしていた。着くずしてもだらしなく見えないから不思議だ。
藍生は鞄から発火石と、煙草の包みを取り出した。包みから一本抜き出し口に咥えると火も点けないで発火石の蓋を弄っている。
「喫う、」
勧められたが曲がりなりにも仕事中なので
「いや、遠慮しとくよ」
店番の学生は首を横に振った。
「閉店の札を掛けてきたから大丈夫」
「ぢゃあ一本だけ貰おうかな」
店番が自分の煙草に火を点け発火石を藍生に差し出すと、その手を押さえて
「こっちが好い」
と煙草から直接火を移そうとする。瞼が伏せられると夜天のような群青色の瞳が隠れ、鳶色の髪がサラサラと額にこぼれて頬に影を落とす。藍生が淡紫色の烟を吐き出すのを見て、店番は魅入られていた事に気付いた。視線を逸しごまかすように煙草を吹かした。こんな時、煙草は便利だ。
「そうだ、『帆船』また頼むよ。もう此れきりなんだ。」
藍生が残り少ない包みを振って言った。南への出荷品の『帆船』は都市では出回らない。たまたま伝手が合って手に入れた物を珍しいな、と藍生に分けてやると、それ以来気に入ったようでずっと咽んでいる。毎月カートンで一、二個分けて貰っていたのだが近頃それでは全然足りない。以前は手慰みに喫っている風だったのに、まるでニコチン中毒にでもなったみたいだ。
「もう無くなったのかい、藍生きみ最近喫い過ぎぢゃないの」
眉を顰める店番にわざと煙を吹き掛けて
「余計なお世話」
と俯いた。彼の唇から漏れる淡い紫の煙は溜め息のように見える。鬱屈を抱えている所へ説教をしても仕方がない。店番は肩を竦めると天台の奥へ消えた。
戻って来た店番は手に洋燈を持っている。火屋を外し、アルコォルを注ぐと、燐寸を摺って芯に近付けた。暖かな橙色の火を移すと洋燈は淡青い火を揺らめかせる。火屋を被せると瀟洒な草花の細工が浮かび上がった。藍生はオイルの赤い炎とは違う青い焔に魅入られたようにジッと洋燈を見詰めている。
彼を天台に残し、店番は閉店の準備を始めた。小さな鍵が付いた束を持って硝子戸棚の錠を一つ一つ確かめて行き、陳列台や未整理品の箱を誇り避けの布で覆って行った。暖炉に薪を足して戻ると、藍生はまた新しい煙草に火を点けていた。かと言って吸う訳でもなくただくゆらせて煙の立ち昇る様を見ているだけだ。
「南に恋人でもいるの、」
ずっと気になっていた事を思わず言ってしまった。
「違うよ」
と苦笑したが哀しそうな睛がその通りだ、と物語っている。彼のおもい人
も南の地で同じように『帆船』に火を点けているのだろうか。
「何か妬ける、」
嫉妬心を隠して明るく言う。
「父が南に住んでいるんだ」
会いたくてたまらないのだろう
「明日の午后の分で良ければ切符を都合するよ」
口が勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「卒業するのは夏だよ、まだ先だ」
戸惑う藍生に
「ぢゃあ卒業したらどうするつもり」
何でこんな事を言ってるんだろう、
「工科大学に進む」
「本当はそんな気無いんだろう、」
とうとう藍生が根負けした。
「五時の船にして呉れる」
藍生は困ったようにはにかんだ。
「弟と仲互いしているだろう、ちゃんと話し合ってから行けよ」
おせっかいな自分に嫌気が差す。
「有り難う」
藍生はイスから下りると外套を着込み、鞄を掴んだ。
「あとで切符を取りに来るよ」
と言い残し風のように行ってしまった。
「損な役回りだな」
店番はもう帰るかと黒尽くめの服の上に黒い外套を羽織って、店を出た。
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