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水蓮ときたらこの寒い中、セーターに襟巻きだけの姿で現れた。
「そんな格好で寒くないの、」
襟巻に積もった雪を気にする風でもなく
「走って来たから平気さ。」
なんて云っている。
「……風邪をひいても知らないからね、」
この冬に新調したばかりの水蓮お気に入りの外套も、春を待つ思いには適わないらしい。
「暦の上ではもう春だもの、」
だがそう言った水蓮の吐く息は真っ白だ。銅貨は込み上げてくる苦笑いを、背を向けて隠しながら水蓮を招き入れた。
銅貨がショコラを入れようとしていると、水蓮がポケットから茶色い紙包みを取り出して銅貨の掌に載せた。
「ぼくがいれる。」
そう云われて銅貨はシンクから追い出されてしまった。悔しい事にショコラに限らずお茶でも珈琲でも、水蓮が淹れた方が美味しいのだ。それが分かっているので、銅貨は大人しく引き下がる事にする。
「任せるよ、」
柔らかなソファに身を沈め、膝の上で水蓮に手渡された包みを広げる。すると雪白のマシュマロが零れ落ちて来た。口に含んでいるうちにジワジワと溶けて、やがてスゥと無くなってしまう。何だか少し寂しかった。
銅貨がボーっとしているうちに、いつしか辺りにショコラの甘い匂いが漂っていた。
「お待ちどうさま、」
水蓮が祖父仕込みの綺麗な所作で、お盆からテーブルへとカップを移す。
「好い匂いだね。」
銅貨は湯気の立つ上へ顔を近付けて甘い匂いを吸い込んだ。
「そりゃそうさ。カップに粉を入れてお湯を注いだだけのと一緒にされちゃ困るね。」
水蓮はいつもショコラをいれる時に手間暇を掛けていた。火にかけた鍋にカカオの粉末を入れた上へ、牛乳を少しずつ垂らして粉を練っていく。不器用な銅貨が真似た所で、鍋が焦げ付くか、牛乳が多過ぎて味の薄いショコラが出来上がる程度だ。やっぱり水蓮がいれたのが良いや、とふうふう吹いて冷ましながら飲んでいると
「良かった。」
水蓮の掌が銅貨の頬を包んだ。陶器の冷たさを思わせる白い指は意外にも暖かだ。心地良い温度に瞼を閉じてしまい、水蓮に言葉を返すのが遅れた。
「え、何が、」
我に返った銅貨が、上目使いに見詰めると、何故か水蓮の手が離れて行く。銅貨が咄嗟に手を掴もうとしても逃げていく。
「浮かない顔してたからさ、」
早口に言って黙り込んだ水蓮の、紅潮した頬と宙に浮いたままの手を、銅貨が不思議に思って見詰めていた。しばらくして水蓮は、少し躊躇ったようにしながらその指で銅貨の髪に触れた。
「上手くは言えないんだけど、何だか少し寂しくなっちゃったんだ。」
銅貨は髪を梳く指の心地よさに瞼を閉じながら、返事を返す。マシュマロが口の中で消える時の何とも言えない喪失感を伝えると、水蓮は馬鹿にするでもなく、銅貨の膝の上にある袋からマシュマロを二つ抓んで各々のカップに浮かべた。
「見ててご覧。」
白い塊はゆるゆると嵩を減らして溶けていく。ショコラの茶色と溶け合った部分はシナモンのような優しい色合いになっていった。
水蓮がスプゥンでそれを掬って口へ運ぶ。また掬って、銅貨にも。
「はい、あーん。」
おどけた仕草に笑いながら銅貨が口を開けると、口の中に甘みが広がった。優しい甘みに強張っていた銅貨の口元も綻ぶ。
「ほら、こうしたら寂しくない。」
「うん、おいしい。」
星でも見に行こう、と水蓮に誘われ、エレヴェーターで七十五階の展望室へ昇った。円蓋の屋根の白っぽく濁った硝子越しに夜天を見上げれば、縞石灰の採石場から見たのと同じ星座たちが並んでいる。南へ行く船に乗る前に、兄とふたりここで並んで星を見たあの時から、随分と時間が経ったのだ。銅貨が感慨に耽っていると、水蓮が沈黙を破った。
「冬になると、何となく少し寂しい気持ちになるけどさ、温かいショコラを一杯呑むだけで幸せな気分になれるんだから良いと思わないか。心までホカホカしてきて自然に笑顔になる。夏なんてさ、檸檬水を何杯飲んだって暑苦しいままだろう。」
水蓮は寒さに白く曇った硝子を手で擦って「ここから見なよ、」と銅貨に促がし、水筒に詰めてきたショコラを振舞った。銅貨は何だか湯気が目に沁みて俯いてしまう。水蓮は気付かない振りをしてくれたけれど、云わずにはいられなかった。
「ぼくは変なのかな……。」
涙交じりの声で銅貨が問うと、
「どういうこと、」
暗に、話してしまえば楽になるからと云っているようだった。
「何でこんなに兄さんのことが気になるんだろう、」
「火傷する。」
水蓮は興奮した銅貨の手から水筒の蓋のカップを取って、しばらくの間考え込んだ。
「ぼくには兄がいないから分からないけど、別に変ぢゃないと思うよ。それってやっぱり兄弟だからぢゃないかな、」
「血が繋がっていなくても、」
「一緒に暮らしてるのが、家族なんだろう。だから銅貨と藍生さんは兄弟ってことなのさ。」
水蓮が教科書に出てくるようなことを云うのが、何だか可笑しい。
「ぢゃあぼくたちも一緒に暮らせば兄弟ってこと、」
「そういうことになるだろうね。よく藍生さんが羨ましいって思ってたんだ。でも、銅貨と兄弟になるのは嫌かも知れない。」
「……、」
水蓮は、銅貨が藍生のことばかり考えているので、ほんの少し意地悪な気持ちになっていた。ゆっくりとした動作でズボンからライカを取り出し、琥珀色の貝細工の発光石で火を点けた。煙草吸い込んで、煙を吐きながら隣を見る。銅貨は何か嫌われるようなことをしただろうか、と考えながら蒼くなったり赤くなったりしている。
「だって、藍生さんと比べられたら嫌だからね。」
たっぷり時間をおいてから言った言葉に、銅貨は安堵の溜め息を吐いた。隣に並んで夜天を見上げる水蓮はどこか決まり悪そうだ。でも、ちょっぴり拗ねたような風でもある。銅貨は怒ってやろうと思っていたのだが、そんな水蓮の横顔を見ていたら急に抱き着きたくなった。セーターの胸に頬を寄せると、水蓮がごめんね、と呟いた。さっきまでショコラを掻き混ぜていた所為か甘い匂いがする。
「好い加減に藍生さんのことは忘れてもらわないと、困るよ。」
水蓮が銅貨の頤を掬い上げて、睛を覗き込んでくる。精巧な自動人形のように綺麗な顔に思わず魅入ってしまう。瞼に指が触れて、慌てて睛を閉じると、額に口付けが落ちてきた。
「ところで水蓮って、何で兄さんのこと《藍生さん》って呼ぶの、」
「本人の前でそういう風に呼んだことはないよ、」
「え、どういうこと、」
まさか呼び捨てにしているのかと思い銅貨が聞いても、水蓮は微笑むばかりで返事はない。
「無駄だよ、兄さんは父さんに夢中なんだから。」
必死に食い下がる銅貨を見て、水蓮は意味深な発言をした。
「銅貨のお兄さんだからさ。」
ますます混乱する銅貨を余所に、水蓮は冷めたショコラを飲み干してまた注いだ。
「さぁ召し上がれ」
はぐらかされた銅貨は少し膨れっ面だ。水蓮は何故だか上機嫌でクスクス笑っている。
「好きだよ。」
それがもうひとつの答え。
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