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「もしもし、俺だけど。」
騒がしく鳴る電話に駆け寄った凛一は、受話器から聞こえる思いがけない声に、一瞬返事が送れてしまう。久し振りの氷川からの電話だ。嬉しくて、咄嗟に返事が浮かばなかった。
「もしもし……氷川と云いますが、凛一くんご在宅でしょうか。」
誰か他の者が電話を取ったと思ったのか、再度改まった調子になって氷川が云った。
「あ…ぼくです。凛一です。」
意外に気の短い氷川のことだ、好い加減答えないと切られてしまうかも知れない。凛一が慌てて返事をすると、
「もしかして寝起きだった、起こしたんなら悪かったな。千尋さんや暁方さんなら、俺の声を聴いたら分かるはずだろう。誰が電話を取ったのか解からないからさ、正直ちょっと緊張した。」
途端に丁寧な言い方から、いつものぶっきらぼうな調子に戻った。凛一もようやく気を取り直し、
起きていたから大丈夫だと伝える。
「何か声がかすれてる……風邪でもひいたんぢゃないか、」
電話で話すことは、大抵同じことばかりだ。いつも一番はじめに体調が悪くないかと聞かれるので、凛一もいつも通りに返事をする。
「平気です。」
取りとめのないことを話しているうちに時間が過ぎていってしまう。
「十円玉、次で最後の一枚だ。もうすぐ切れる。」
受話器を置く間際になって氷川は付け足すように早口で言った。
「あのさ、急で悪いんだけど、明後日会わないか、」
京都へ来てからは定期的に稽古をつけていた弟子たちから解放され、割合自由に時間を使えるようになった。勿論氷川からの誘いを断る訳がない。舞い上がって訳の分からないまま、何とか受け答えはしていたらしく、電話台に備え付けのメモ用紙には駅前二時と書いてあった。
待ち合わせの場所に行くときは、早く来ている凛一を見つけても、すぐには声をかけられないことが多い。待たせて悪いと思う気持ちはあるのだが、声をかけるのが惜しくなってしまうからだ。
駅に着き改札口近くに彼の姿をみつけた氷川は、先ほどまで急いていた歩調を緩めた。柱の横に佇んだ凛一は、焦げ茶のズボンにオフホワイトのダッフルコート、首元にはそれより少し色の濃いアイボリーのマフラー巻いて、揃いの手袋をしていた。冬場のことで肌が見えているのは顔だけだ。その所為だろうか、もう随分と背丈も伸びたのに、出会った頃のように、少女めいて見えた。
そうして見ていると、凛一は手袋をはめた指先を擦り合わせ息を吹きかけた。かと思うと、今度は下を向いてコートの袖を捲くる。腕時計でも見たのだろうか。顔を上げた凛一は、寒そうにマフラーへ顔を埋めた。可愛らしい仕種に、何だか急に独占欲がわいてきて、誰も見るなと隠してしまいたくなった。だが、近寄ろうにも人波の中では叶わず、氷川はもどかしい思いをしながら、先程は緩めた歩調を今度は速めた。
「そんなに急がなくても良いのに、」
まだ時間前だと言いながら見上げる睛は、陽の光を受けて茶褐色なのが、一層淡く甘く見えた。何だか落ち着かない気分になりながら、凛一の隣へ並んでみると、寒さに血の気の引いた頬が青白い。さっき見ていた時から寒そうにしていたのに、いまさら気づくなんて、と氷川は悔やんだ。
「いつから待ってたんだ、」
つい怒ったような口調になってしまい、凛一は叱られた犬のようにしょんぼりしながら言った。
「……十分くらい前です。」
凛一の自己申告なので、多めに見て十五分か二十分は待っていたに違いない。時計を見れば一時四十五分を過ぎたばかり。待ち合わせの二時まで待っていたら、この寒い中三十分以上も待つ羽目になる。苛立ちながら見下ろした視界には、俯いた凛一が睫毛を震わせていた。ここにいてはますます冷えてしまうと気付く。
「ひとまず暖まりに行こう、」
「氷川さん、人が見てます。」
手を引かれた凛一が慌てると、氷川は別に誰も見てないさ、と気にしない。導かれるまま付いて行くと、通りを脇に逸れて住宅街の方へ入っていく。やがて見逃しそうな小さな看板を掲げた舗が見えてくると、その前で止まった。扉を開けるときにようやく繋いだ手を離してくれる。中に入ると落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。氷川は慣れた様子で奥まった席へと歩いていく。少し遅れて後を追った凛一は、勧められるまま奥の席に腰を下ろした。
「随分冷えてるな、」
手袋を外した途端、いきなり氷川に手を握られてびっくりする。
「あんまり無茶するな。」
「はい」
「早くついたときは、せめて時間までどこか店に入るなりしろよ。」
子どもに説き伏せるように言われてしまって恥ずかしい。
「今度から、そうします。」
冷えた手に温もりを移すように撫でられて、指先から痺れたように熱が逆上っていく気がする。
「いや、違うよな。寒いのに俺が外で待ち合わせなんて決めたからだ。」
気を悪くしたのだろうか、という心配は打ち消された。両手を包んでいた大きな掌が緩んで、指と指を絡められる。でも情熱的な手と違って、氷川の顔は余所を向いていた。それに助けられて凛一もなかなか云えない本音を漏らす。
「駅で待ち合わせするのって、普通の恋人通しみたいで嬉しかった。だから莫迦みたいに浮かれて、早く着き過ぎてしまったんです。心配かけてごめんなさい」
「珈琲で良いよな、此処は自分で取りに行くんだ。」
厨房らしき方へ歩いた氷川が戻ってくると、トレーの上には、珈琲だけでなく白いクリームをまとった苺のケーキが乗っていた。
「あれ、なんでケーキ……」
「誕生日だろう、」
「えっ…ぼく来月ですよ。」
「くそっ、省子のヤツ……」
早生まれだとしか知らなかった氷川が、わざわざ省子に電話をかけて訊いたらしい。
「あ、でも。来月の今日だから。日にちは合ってますよ……」
「急に呼び出しておいて、間違えるなんて間が抜けてるな……せっかく久しぶりに会うんだからって柄にもないことをしようと思ったら、これだ。」
「理由なんてなんでも良いんです。氷川さんと会えて嬉しかったから。」
「電話をかけたとき省子に、凛一を放って置きすぎだ、もう少し構ってやれ、とけしかけられた。それを聴いて年末から凛一と合っていなかったことに気付いたんだよ。ふつうだったら愛想つかされてるところなのに、ずっと待っててくれたんだよな。」
「会えないと、寂しいけど。次に会えるときの楽
しみが増えるから良いんです。」
「凛一らしい。なぁ、今度俺が練習にかまけてたら、おまえから誘ってくれよ。」
「はい。ぢゃあさっそく。来月の誕生日もこうして会ってもらえますか。」
「うん。やりなおしをしよう。そしたらこの話はおしまい。珈琲が冷めないうちに食べようか、」
勧められて食べたケーキは何だか懐かしい味がした。
「誕生日ケーキなんて久しぶりだな……、千尋兄さんが家に居た頃はよく買ってきてくれたんですけど。」
「でも、今日ぢゃないんだろう。」
ふてくされたように苺にフォークを刺して云う。
「何だか……変なの。氷川さんが、可愛い。」
身を乗り出した凛一が頭を撫でると、そのまま腕を引かれた。氷川は食べようと手にしていた苺を皿に置いて、凛一の唇を優しくかじった。
「こっちの方が美味そう。」
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