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あの頃のぼくは姉を亡くした寂しさからか、以前にも増して晟先生に懐き、原岡の家へと入り浸っていた。
放課後になると家へは帰らず、いつものように通い慣れた道を急ぐ。威圧感のある門を通り越し、勝手口から庭へ回り縁側から家へ上がると、どうやって気付いたのか凛一がおぼつかない足取りで駆け寄って来た。抱き寄せるとうっすら花の芳りが漂ってくる。
「晟先生はお稽古場かな、」
花を活けているのかと思い凛一に聞いてみると、意味が分かっているのかいないのか……小さな頤をコクンと縦に振った。
凛一を抱いてやろうとして、重いランドセルを背負っているから止めた方が良いだろうと思い直す。落としてしまったら大変だ。小さな手を取り、引いてやることにする。来年は中学に上がるというのに千尋はまだ躰が小さいままだった。
障子戸に嵌まった硝子を覗くと、思った通り晟先生が稽古の仕度をしていた。もうすぐ生徒さんが通って来るのだろう。邪魔にならないよう、声は掛けないまま戻る。
居間へ行くと、細長い円卓の上に画用紙とクレヨンが有った。さっき出迎えてくれるまでは、ここで絵を描いていたのだろう。凛一はさっそく椅子によじ登り、続きを描き始めた。本当に手の掛からない良い子だ。
凛一とはひとつ違いの、もうひとりの甥のことが思い浮かぶ。兄の十時の子、正午。最近伝い歩きが出来るようになった彼のお気に入りは障子破りだ。そのやんちゃ振りには驚かされた。赤ん坊の頃から大人しかった凛一とは比べ物にならない。でも普通はああいうものなんだろう、とも思う。卓の上に置いた画用紙の他は決して汚さない凛一の行儀の良さを好ましく感じる一方で、もう少し好きなようにさせてやりたいとも思う。でも我侭を言って泣き喚く凛一など想像出来なかった。
座るのも忘れ、立ったまま色々と考えていた千尋の気持ちも知らないで、凛一は楽しそうだ。クレヨンを持つ手はぎこちなく黄色い円をぐるぐると描いていた。恐らく庭の木なのだろう、黄色い花を描いた後、葉の色に黄緑と緑のどちらを使うか迷っているのが可愛らしい。千尋は答えの出ない考えごとはもう止めようと、居間の長椅子に腰掛け、宿題を広げた。
一区切りついて顔を上げると、凛一は新しい頁へ取りかかっていた。さっきまでの草花の明るい色彩と違う、暗い色ばかり使っている。青と紫と黒を交互に取りぐりぐりと紙に擦りつけていた。千尋が困惑しながら見守っているとやがて凛一は満足そうな笑みを浮かべて画用紙を差し出した。
「ぼくにくれるの、」
ありがとう、と受け取ったものの、何を描いたのか分からない。それを察した凛一は眉間に皺を寄せた。見る間に瞼の縁が濡れてくる。泣くまいと唇をかむ凛一を抱き上げて稽古場へ行くと、生徒さんたちも帰った後のようで、もう誰もいなかった。慌てて引き返し晟の書斎へ走る。好い加減腕が痺れていたのだけれど、しゃくり上げる凛一の声に、自然と脚が速まった。
「晟先生助けて、凛がご機嫌斜めになっちゃったんだ」
ガラっと障子を開けると晟先生が驚いた様子もなく振り向いた。
「もしかして何の絵を描いたか分からないってヤツかい、」
来ていたのか、と挨拶するでもなく行き成り話し出すのは、いつものこと。お蔭でついつい寄り道してしまう
「うん。どうして分かったの、」
問い返す間に凛一を床へ下ろすと、離れるのを嫌がるので手を繋いだ。
「最近ずっとそうなんだ。母も手伝いのおばさんもすぐ音を上げて、よく呼ばれるんだよ。」
三人で件の絵のある居間まで行くと、晟は一瞥しただけで分かったようだ。
「何だ、千尋くんを書いたんだね。」
そう云われて見れば、千尋は紺色の制服を着て、黒いランドセルを背負っている。だからこんな色を使ったのだろう。さっきまで泣いていた凛一もようやく泣き止んで呉れた。下からジッと見上げてくるのを空いている方の手で頭を撫でてやる。
「ありがとう。」
千尋が言うと凛一は花が綻ぶような笑みを見せて呉れた。でも……
「凛一、父さんは描いてくれないのかい、」
晟先生に抱き上げられた凛一が羨ましくて、仕様がなかった。もう子供ぢゃないのに、そう言い聞かせても無理だ。自分も抱きしめて欲しいなんて、何故だろう、
「騒ぎたててごめんなさい。」
晟先生の大きな手にクシャリと髪を撫でられて、やっと分かった。抑え切れない気持ちの意味が。ぼくはこの人が好きなんだ。
千尋は思い立ったら即決する性質だ。そういう訳で、春から原岡家に居候を決め込んだのだった。
「どうしたんですか、ボーっとして。」
振り向くと凛一が冷えた麦茶を片手に立っている。目の前で庭の手入れをされては、何かしなければいけないような気になって、押入れの片付けを始めたのだが、思い出のつまった品々につい手が止まった所だった。
「懐かしいものが出て来たな、と思って。これ凛が描いた絵だぜ」
差し出された麦茶に礼を言って受け取り、件の画用紙を見せる。はたして絵と呼べるのか、幼児特有の抽象画のような色の塊を見て、凛一は頸を傾げた。
「ぼく、覚えてないです」
「当たり前だ。まだ二歳になるかならないかだぞ、覚えてる方が変なくらいだ。」
どうして百合のこと覚えていないのだ、と凛一に辛く当たったことを思い出し、千尋はしばし落ち込んだ。凛一にしてみれば覚えのない絵に興味は行かないようで、早々に返してきた。傍にあったアルバムを指して見てもいいですか、と律儀に訊ねてくる。
どうぞ、と千尋が云うとアルバムを膝の上に乗せて熱心にみつめている。子供の頃のものは実家においたままなので、今見ているのは御殿山の家に世話になった中学以降のものだろう。既に鬼籍に入っていた百合の写真はないが、千尋と一緒にまだ幼い凛一が移っているものが多い。時折晟の写真も混じっていた。
頁を捲る音が止まったので、熱心に何を見ているのかと凛一の手元を覗いてみると、やはり晟の写真だった。写真に写る父の姿をジッと見つめる凛一は、頬の丸みが削げて少し大人びて見えた。伏せた瞼の先に伸びる睫が頬に影を落とす。稽古中もそうだが、こうして俯いた姿勢だと、ますます晟に似てきたなと思う。しんみりと感傷に浸っていた千尋に、何か思いついたらしい凛一が近寄ってきた。
「ちょっと動かないで下さいね」
膝の上に乗り上げて、胸に頬を寄せてくる。凛一が自分から甘えてくるなんて、本当に何年振りのことだろうか。
「どうした、急に。」
驚きながらも可愛い甥に甘えられて嫌なはずもない。抱えなおして頭を撫でてやる。まだ小さい躰はこうして腕の中に収まっているが、直に晟のように大きくなるのだろう。
「千尋兄さん。」
凛一が千尋の腕から抜け出して膝立ちになると、ちょうど視線が同じくらいになった。凛一は千尋の肩に腕をかけて見つめると真剣な顔で云った。
「好きです。」
晟からは、ついに引き出せなかった科白をよく似た顔の息子に云われて、一瞬ことばに詰まる。似ているとはいっても面差しだけだった。理性的なところは父に似なかったらしい凛一は、その隙に耳元へ顔を寄せて、また同じことばを囁いた。
「大好き、」
「意味が分かって云ってるのか、」
慌てて頭を引き剥がすと、凛一はひたむきに千尋を見つめてくる。
「兄さんにならどう扱われても良いんです。ねぇ、今夜は一緒に寝てくれますか、」
「ははっ、とんだ性悪だ。」
ほんの一時でも晟と凛一を比べてしまった自分を誤魔化すように、千尋は子どもっぽい仕種でまた抱きついてきた凛一の頭を、くしゃくしゃになるまでかき回してやった。千尋の一番目が凛一に変わるのは、時間の問題かも知れない。
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