|
凛一が眠りから覚めると、陽は既に高く昇り、眩しい程に明るく庭を照らしていた。ハレーションを起こしたフィルムのような外の様子とは反対に、光の差し込まない部屋の中は薄暗く少し肌寒く感じられる。
傍らに眠る氷川を見るとまだ瞼を閉じたままで、呼吸をする音が小さく聞こえてくる。穏やかな心音と温もりは心地良く、二度寝の誘惑に駆られたが、せっかく氷川の側にいられる時間を寝て過ごすのは勿体無い。静かに腕の中を擦り抜けて起き上がり、遅い朝食の用意をしに台所へ向かった。
冷蔵庫の中から残り物の惣菜と香の物を並べていく。炊飯器を開け中身を確かめると二人で食べるには十分足りる量だ。
氷川を起こしに部屋へ戻ると、寝返りを打ったのか上掛けの布団を跳ね除けていた。昨日は雨の降り注ぐ中、練習を終えて直ぐ凛一の元へ駆け付けてくれた。余程疲れているのだろう、ぐっすりと眠る姿を見ていると愛しさが込み上げてくる。凛一は枕元に膝を寄せ、捲れた布団を掛け直した。
「氷川さん、」
名前を呼んでも目覚めないのを確かめてから、そっと氷川の唇に手で触れてみる。だが決心が付かず、前髪を掻き揚げて額に口付けた。何だか恥ずかしくなって直ぐに立ち上がろうとした。が、
「凛一。」
後ろから抱き締められて驚く。
「すみません、起してしまいましたね。」
大胆な行動を取ってしまった凛一は取り繕うようにして早口に言った。
「おはよう。」
氷川は慌てる凛一を下から仰ぎ見て意地の悪い笑みを浮かべると強引に唇を合わせてきた。
「始めから起きていたんですか、」
まさか寝た振りをしていたのかと思いながら聞くと、
「さっき凛一に起こされた所だよ。」
そう嘯いた氷川は、苦しげに息を継ぐ凛一を抱き寄せ、布団の中に引き摺り込んだ。
「せめて頬ぐらいしてくれた方がもっと嬉しかったんだけど、」
可愛らしい音を立てて頬に口付けられた凛一は、朱に染まった顔を氷川の胸に伏せて隠した。
「あの、いい加減もう起きませんか、」
話を逸らそうとしたのが解ったのか
「嫌だね。」
ギュッと抱き締められた。
「ぢゃあ、もう少しだけですよ。」
「うん。」
満足そうに微笑む氷川に擦り寄って
「氷川さん、良い天気だし何処か連れて行ってくれませんか。」
甘える凛一の頭を撫でていた氷川は
「大丈夫なのか、」
と心配そう聞いて来た。最初は解らずに頸を傾げた凛一は、考えて意味を理解した途端に益々顔を赤め
「平気です。」
と呟くと、これでは氷川の思う壺だと思いながら自分から抱き着いた。
ようやく布団を上げ、朝昼兼用の食事を終える頃、玄関の硝子扉がカタカタと音を立てた。凛一が出迎えに行くと正午が居る。挨拶もそこそこに目敏く大きな運動靴に目を付けては
「可愛がってもらった、」
全てお見通しだ、と言わんばかりに凛一の耳元へ囁いて来た。
「凛一、鞄を取って来て暮れないか。」
そこへ氷川が現れ、少し怒ったように言った。凛一が慌てて部屋に戻り、氷川が独りになると、正午が絡んできた。
「最近の兄さんは少し揶揄っただけで、すぐに赤くなるんですよ。前は何があっても澄ました顔をしていたのに。」
正午の気持ちを知っている氷川は戸惑って言葉が出ない。
「ごめんなさい。彼方には敵わないなと思ったら、つい意地悪したくなっちゃった。」
と笑う正午に
「すまない。」
氷川はポツリと言った。
梅雨の中休み。久し振りの陽気は夏のようで、昨日の雨の名残りの水溜りもすっかり乾き、今は少しばかり土を黒く湿らせているだけだ。ジメジメとしていた空気も、カラリと乾いていて気持ちが良い。
行き先も決めず適当に歩いていた二人は、何となく気不味く黙ったままだった。氷川は後を付いてくる凛一を気遣ってか、影の在る木立を歩いて行く。それに気付いた凛一は、礼を言うのもわざとらしいように思えてふと目に付いた花を指差して言った。
「氷川さん見て下さい、躑躅が咲いていますよ。」
「あぁ、それは皐月だよ。躑躅に似てるけど、木
も低いし花も小振りだろう、」
「そうなんですか。」
氷川は懐かしそうに花を一つ摘むと、凛一に差し出した。
「小さい頃に蜜を吸ったりしなかった、」
教えられるままに、萼を取り蕊を抜いて吸ってはみたものの上手くいかない。
「あれ、味がしない。」
「貸して、」
氷川は蜜を吸うと
「こっちの方が早いな。」
唇を合わせて来た。最初は驚いていた凛一も、
「解らない。」
そう言って甘えて、離れようとした氷川の襯衣の裾に縋り付いた。再び合わせた唇が離れた途端、急に氷川が笑い出す。
「まだしたいの、」
凛一は意地の悪い言葉を紡ぎ出す口を塞ぐ為、また口付けた。
|
|
|