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朝方、義母から突然かかってきた電話にぼくは戸惑いを隠せなかった。
連絡を取るのは年に数回程度、命日でもなし、盆にはまだ早く何事かと思いつつ、電話を取り次いだ伯母から変わる。
「崇さん、」
そんな風に呼ぶのは義母くらいのもので、いつもくすぐったい様な気持ちになる。その声の中に震えを感じて問うた。
「如何かした、」
何もなければこんな時間にかけてくる筈がないのに、我ながら間抜けな問い掛けだと思いながら訊く。義母の用事は、弟の様子を見て来て貰えないか、ということだった。
四年前父に先立たれてから、彼女は女手一つで寧を育てている。仕事もそうそう休めないのだろう。具合の悪そうな様子が気になってと語る声には寧への心配と、その場を離れられない苛立ちが滲んでいる。たいして用もなく暇を持て余していたぼくは二つ返事で引き受けた。
口さがない連中にあらぬ噂を立てられぬように、義母とは法事でもない限りは直接会うことは控えていた。連絡手段は手紙と電話に限られる。折々に届く寧の近況をしたためた手紙。それに添えられた写真で、弟の成長は手に取るように知っていたつもりだった。けれど実物はどうだろうか、実際に会うとなると妙に緊張してきた。義母は正体を明かしても良いと言ったが、迷う気持ちのまま家を出た。
講習会場の大学に向かう途中、まだまだ育ちざかりといった風な、寧と同じ年頃の少年たちの集団と擦れ違った。門に立つ学生バイトに促されて、散り散りに教室へと別れて行く。来るのが遅かったかと思って焦っていたら、ふいに足が止まった。自然と目が吸い寄せられる――寧だった。
遠目に横顔を見ただけでも分かる。大きくなったなぁ、と暢気に眺めていると行ってしまった。顔色は悪いというより、むしろ紅潮して頬が火照っている。一見、寒さか緊張の所為にも見えるので周りは気にも留めなかった。熱があってもなかなか言い出せないのは昔から変わらないらしい。試験が終わるまですぐ近くの喫茶店で暇を潰すことにする。長丁場になりそうだったが、学生相手の店なので気兼ねはいらなかった。
門の方ばかり気にして見ていると、講義が終わったのか、門から学生服を着た集団が次々と出てくる。それなのに、寧の姿は一向に見えない。取り敢えず外で待とう、と会計を済ませていると、小柄な人影が道なりに歩いてきた。慌てて店を出る。どうも歩き方が覚束無い様子だ。でもいざとなると何と声を掛ければ良いのか分からない。いきなり兄だと名乗られても混乱するだろう…迷っているうちに、寧の体が傾いて斜面を滑り落ちた。
手を差し伸べると、スラスラ出鱈目が口をついて出る。人の手を借り、タクシーで降矢の家まで帰った。
着替えさせている時、腕時計が目についた。これも外した方が良いだろう。文字盤を裏返すとAtsushiと刻んであった。父の形見分けの品らしい。感慨に浸っていると、寧の手が触れた。愛しそうに時計を耳元へやって針の動く音に耳を傾けた。それを真似て自分でもやってみると、時を刻む規則的な音と振動が伝わる。それはまるで幼い頃、母の腕に包まれていた時のようだった……
熱に浮かされながらも穏やかな寧の寝顔に、慈しんで育てられてきたのが垣間見える。その日はとうとう何も言えぬまま過ぎた。
庭木の隙間から零れ落ちる木漏れ日が寧の上をチラチラと揺れていた。
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