微熱の記憶 [夏至南風] 碧夏 & 鈷藍





 正午の太陽が傾き始めた頃になって、鈷藍はようやく目を覚ました。隣にある緑の寝台を覗くと、くしゃくしゃになった寝具が枕元に丸まっているだけだった。手を伸ばして敷布を撫でてみる。温もりは既になく冷えていた。緑は随分と前に起き出していたようだ。

 起き上がると眩暈がする。思わず目の前にある緑の寝台に倒れ込むと敷布がひんやりと心地良い。鈷藍は体が火照っているのに気付いた。

 急に力の抜けた身体を無理矢理に起こし、窓の外を見ると瑛石のハードトップが無かった。弟も叔母も居ない家は居心地が悪い。市場でも冷やかしに行くことにしよう。





 果実を扱う店でマンゴスチンを見ていた時、横合いから硬貨を握った大きな手が伸びてきた。売値のまま買うなんて土地のものではないようだ。見上げると白色系の蒼白い顔が微笑んだ。新しく赴任してきた役人か教師だろうか。店主が紙袋を量りに載せて果実を詰めようとすると、紳士風の男は少しで良いと云う感じの仕草をした。土地の言葉が話せないみたいだ。彼はマンゴスチンの紙袋を鈷藍に押し付けると、お釣りを渡そうとした店主に背を向けて鈷藍に哀れむような眼差しを注いだ。





 土瀝青で舗装されていない地面は干からびた土が続き、歩くたび土煙が舞い上がる。微細な砂は襯衣の襟や袖口から潜り込み、汗ばむ肌に張り付いた。素足に履いた靴の中も砂だらけになり、目や口の中まで気持ちが悪い。

 鈷藍は海岸ホテルへ戻ると、階段を一息に欠け上り五階にある自室へと急いだ。部屋に入るなり寝台に鞄を放り投げ、歩きながら襯衣の釦を外し床の上へ落として行く。シャワァの栓を捻ると生温い水が落ちて来る。昼の間、太陽の光に晒された水道管が熱を持っているのだろう。汗や砂と一緒にこのもやもやした気持ちもすっきり流してしまいたかったのに、こんなぬるま湯のような水を浴びても役に立たない。プールの水に潜りたかった。庭師のマルチネスに見付かると厄介だけれど、冷たい水の中に入れるのならそれでも構わない。少しの間大人しく、従順にしていればすぐに済むことだ。腐った哈密瓜を食べさせられたって吐いてしまえば良い。





 庭へ下りて行くと先客が居た。碧夏がプールの淵に横たわり、爪先を水に浸している。いつも連れ立っている凱と酒旒も一緒だ。鈷藍は急いで引き返そうとしたのだが、すぐに見つかってしまう。

「こいつが鈷藍、」

 碧夏が鈷藍の前へ回り込んで来た。仲間の少年に向かって何か言っているが鈷藍には何も聞こえない。

 碧夏の気が反れている今のうちに逃げなければ…。頭ではそう思っているのに、鈷藍の足は地面に縛りつけられたように動かない。初めて間近に見る彼の姿に見とれてしまった。白色系の蒼白い肌と違って、碧夏の肌は真珠のような乳白色をして透き通っている。その白い肌とは対照的に、漆黒の髪は濡れたような艶を放ち、瀝青の睛も本当に見えているのかと疑ってしまう暗い闇の色だ。真白い襯衣を着ている彼の周囲だけ、色を失くしたようにさえ見える。その中で、唇だけがやけに鮮やかだった。

 気が付けば碧夏に手首を掴まれていた。繊細な指は意外に力強く、振りほどけやしない。そのままギリギリと締め上げられて行き、我慢出来なくなった鈷藍は微かに顔を歪めた。

「本当に何もしゃべらないんだな」

 碧夏は満足そうに口角をキュッと持ち上げる。ふと、それを見ていた二人に気付き眉をしかめた。

「どっちでも良い、早く行けよ」

 碧夏の気が反れて手首を締め付けていた力が緩んだ。鈷藍はいつの間にか息を殺していた様で、おおげさに咳込んでいる。ようやく息が整うと、酸素を求めた肺が痛み出しその場にうずくまる。





 機嫌を損ねてしまった、と凱が媚びるように碧夏に近づく。

「ぼくが行くよ、」

 その睛に怯えを感じ取ったのか、碧夏は微笑みを浮かべて小柄な凱の体を抱き寄せた。碧夏の腕の中、優しく口付けられ、身体を震わせた凱は縋がるように碧夏の首へ手を伸ばす。酒旒が嫉妬を剥き出しにした顔でそれを睨んでいた。

 碧夏は潤んだ睛の凱をマルチネスのいる小屋へ向かわせると、酒旒の方を見もせずに言った。

「今日はもう良い」

「碧夏、」

 肩に触れようとした酒旒の手を振り払った碧夏は射抜くような視線で酒旒を見詰めた。

「家に帰りたくないのなら別の相手を探せば良いだろう」

 頬を紅潮させた酒旒が碧夏を抱き竦める。ふたり並ぶと酒琉の背が少し高く、力も強い。腕を封じられた碧夏は抵抗するのを諦めた。酒旒の手が頤に触れると、碧夏は顔を上向けて口唇を合わせる。夢中になっている酒旒を焦点の合っていない睛で見詰めながら、緩慢に答えていた。

「痛っ、」

 碧夏に急に噛みつかれたらしい。酒琉は言葉も掛けて貰えず、口唇の血を拭いながら庭を出て行 った。  碧夏はいらだった様子で鈷藍に近付きプールへ突き飛ばした。呆然としていた鈷藍はあっけなく水の中へ沈んで行った。

 小さな頃から慣れ親しんでいる水の感触。泳げない訳がない、むしろ得意なはずなのに、濡れた衣服が手足の動きを妨げて、そう深くはないはずのプールの底につま先さえ届かない。もがいているうちに、急に楽になった。碧夏が水の中に入って身体を支えて呉れたからだった。自分で突き落としておいて何故助けるのだろう、鈷藍が不可解に思っていると

 『優しくされたら勘違いしてしまう、愛してるなんて嘘に決まっているのに……』

 背中に触れた碧夏の腕から気持ちが流れ込んでくる。鈷藍は何だか頭に靄が掛かったようになって来て、それを不思議に思わず当たり前のように受け入れた。濡れた前髪を掻き上げてやると哀しそうな睛をした碧夏と目があった。どちらからともなく抱き合い口唇を合わせた。 鈷藍の記憶はそこで途切れている。気が付けば子供部屋の寝台に寝かされていた。

 「兄さん、プールで倒れていたんだよ」 緑の声も朧気にしか聞こえない。はっきりとしない記憶は当てにならないけど、夢ぢゃなかった証拠に、手首にくっきりと跡が残っていた。





 碧夏がプールの傍にひとりでいると、凱が戻ってきた。

「鈷藍って地味な顔だと思っていたけど、近くで見ると皆が騒ぐのが良く分かるな」

 と、碧夏がいうと、凱はやっぱり、と言った顔をして、碧夏に細身のナイフを突きつけた。

「そんなに鈷藍が気に入ったの」

 凱は腕が震えてしまい、ナイフは焦点が定まらず揺れている。碧夏は凱に近付くとナイフを右の手のひらで受け止めて、刃先を強く握った。元から力の入っていなかった凱の指からナイフが抜けて、碧夏の手に渡った。碧夏の紅い舌が腕に伝った真赤な血を舐め上げる。

「碧夏やめて、手が……」

 次々と溢れ出る血に怯えた凱が名を呼ぶと、碧夏はナイフを左手に持ち替えて凱の朱唇に血を塗り込める。その顔に星斑を見つけた。いつもは気にも止めないくらいの淡い茶色が気に触る。つい鈷藍と比べてしまうからだ。さっさと忘れてしまおうと、手取り早く瞼を閉じて口唇を合わせた。口唇に付いた血を舌で拭い取ってやる。

「安心しろよ、本当は誰もぼくのことを愛してなんかいないんだ」







『向日葵花』02/12/22 に収録

自分的にかなり頑張りました。シリアス!
そして色気!でもけっこう空回ってる気が
する…。ところでタイトルのヒマワリって
日本語だと向日葵ですが、中国語で別名を
葵花とも言うと知って両方くっつけちゃい
ました。間違ったんぢゃないよーと言い訳





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