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今年の夏も時計が止まった。鎖で繋がれた小さな羅針盤の針はあらぬ方を向いて揺れている。
昨年と違って、鍍が剥離したはずの鎖や円盤は新品の様に鈍い光沢を放っている。瑕ひとつない硝子がキラリ、光を反射した。
月彦は路面電車から降りると、自転車に乗り換え家路を急いだ。
『会えるかも知れない』
期待を裏切られるのが怖くて、林の中を覗くことさえ出来ずに通り過ぎてしまう。そこに在った空家はもう取り壊されてしまったのだ。
すこし前まで、夜空に懸かった月はまだ細く鋭かった。気がつけば少し太って円くなっている。半夏生の晩を待たずに満月になるだろう。
時計の動き出した朔月の晩。月彦は確かに銀繻子と黒天鵞絨の猫を見たはずだ。
野茨の蔓に結びつけてあった薄水青のリボンを手にすると、月彦はいま戻ったばかりの家を後にした。
夏至も近いこの季節、時刻は夕方を迎えても太陽は沈まず、辺りは明るいままだ。月彦は空家の跡に足を踏み入れると何もない地面を見て途方もない気持ちになった。外に心当たりのある所と云えば集会の開かれた広場しかない。棠梨の木を見つけに行くことにしよう。
辿り着けないかも知れない。不安に思っていた月彦は煎じ薬のようなかをりに気が付いた。よく睛を凝らしてみると行く先がぼんやりと白い。慌てて駆け出すと芍薬の花畑がひらけ、その奥には棠梨の木立が見えた。
花畑の中を行くと黒いものが行き来している。月彦は戸惑いながら手を差し出した。
「黒蜜糖、」
小さな耳がピクと動いて月彦の方を振り向いた。人懐っこく擦り寄ってきた猫を抱き上げる。撫でてやると艶やかな毛並みが心地好い。月彦を見上げる睛は涼やかな薄い青色だ。それを見た月彦は薄水青のリボンを思い出し、ズボンの隠しに手を入れたが何も入っていなかった。
猫が突然動き出した。嫌がっているのか、と思い月彦は腕を緩めたのだが、逃げ出しはしない。何か言いたそうな風なのだが鳴き声を聞いて分かるわけがない。
ふと視線を感じて顔を上げると銀灰色の猫がいた。
驚いた月彦が呆然としているうちに繻子綾の猫はすんなりとした体躯を翻すと駆け出して行った。すばしっこくて、月彦が走った所で追い付けるわけがない。そのうち芍薬の中に紛れて分からなくなってしまいそうだ。腕の中で黒猫が身を捩った。地面に下ろしてやると銀灰色の猫を追い掛けて行く。
猫を見分ける自信は無いけど二匹も揃えば間違いないだろう。あの猫たちは銀色と黒蜜糖なんだ。
白い芍薬の花畑の中で黒蜜糖の姿はよく目立つ。月彦はそれを頼りに付いていった。棠梨の木立へ向かうのかと思っていると、どんどん花畑を離れて行く。林の中に入ってからは、銀色の身体の方がよく見えるようになった。そういえば辺りも随分と暗い。
『いったい何所まで行くつもりなんだろう、』
月彦は息が上がってしまい、立ち止まる。二匹の猫は構わず先に進んで行くので、とうとう見失ってしまった。
林の中は薄暗い。空を覆う枝々が陽光を遮っている所為だ。隙間から漏れる明かりを見ていると空は黄みを帯びて朱と交わり茜色から菫へと移り行く。やがて紺藍の夜空を残して太陽は沈んで行った。
空に魅入られていると、月彦を呼ぶ声が聞こえた。
「月彦、お茶にしよう」
振り向いた先に野茨の垣があった。木戸をくぐると目の前で薄水青の紗のリボンが揺れている。黒蜜糖が月彦の手を引いて庭へ招き入れた。
銀色が卓子に茶碗を並べ、黒蜜糖は花を飾る。月彦が蜂蜜の入った壜を取り出すと、黒蜜糖は嬉しそうに笑った。銀色は一瞬眉をしかめたけれど、月彦に席を勧めて呉れた声は優しかった。
夜の帳が下りたら猫たちの時間が始まる。また明日空家が突然現れる頃になったら蜂蜜と楊桃の果実酒をお土産に持って訪ねよう。
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