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「今日は図書室に寄って帰るから。」
ちゃんと平気な顔で言えただろうか、
「ぢゃあ先に帰ろうかな。」
少し詰まらなさそうな返事。一緒に帰れない事を残念に思ってくれているのだろうか。
「うん。また明日。」
何とか笑顔を作りながら逃げるように教室を去った。図書室はいつも通り、まばらに席が埋まっているだけだ。時折やって来る人も大抵返却箱に本を入れてすぐ帰ってしまう。僅かな利用者の過ごす静かな図書室では、頁をめくる音と控えめな足音だけが聞こえる。アリスも読む気もないのに、重い文学全集を机に広げて片肘を突いていた。俯くとサラサラと落ちてくる髪を軽く抑えながら溜め息を吐く。せめて形だけでもと活字を追うが、集中出来ない。いつもならもっと楽しいのに。だって本を開けば何にでもなれるから。臆病なぼくだって、蜜蜂みたいに。
アリスの読んでいた厚い文学全集を広げた上へ、文庫本がトスと置かれた。『 R Is for Rocket 』 それに続いて耳元へ囁く声。
「さっきから頁が進んでないな、」
「ブラッドベリ好きなんですか、意外だな。」
蜜蜂の事を考えていた時に、その兄が現れるなんて決まりが悪い。
「特別好きな訳ぢゃないけどね、何でも読んでみる性質なんだ。」
話を逸らしたアリスに向かって、チェシャ猫のように口角を上げて笑う。興味がなくて読み進められないのでなくて、考えごとをしていたのはお見通しのようだ。アリスが本閉じると、
「弟が何かした、それとももっと重大な悩み事、」
有無を言わせず隣の席に座り込む。友人の兄でなければ一悶着起きる所だ。
「ぼくが何かした、とは言わないんですか。」
「毎日、アリスがアリスがって聞かされているからね。」
頬が紅潮するのを感じた。この人の前で自分を取り繕っても無駄だった。
「何だか……」
口には出してみたもののどう説明して良いものか躊躇っていると、
「うん。」
と優しく頷いて先を促す。
「上手く言えないんですけど、ぎこちなくなってしまって。」
つかえながら、少しずつ話す。
「例えばどんな、」
普段は弟を揶揄っている姿ばかり見ているけれど、こんな時は頼りになる。アリスも慌てずにしばらく沈黙した後、
「何をしゃべれば良いのか分からなくなったり。」
「蜜蜂の方から良く話しかけるだろう、あいつは放って置いてもひとりでしゃべるからな。アリスは、どちらかというと聞き役ぢゃないのか。」
「そうなんですけど。返事をするにしても、少しでも気の効いたことを言って気に入られたい、とか。詰まらない事を言って嫌われたくない、だとか考えてしまって……」
言っているうちに感情が昂ぶって、咽喉の奥が熱くなってくる。こんな所で泣くまい、と俯いたらそっと頭を撫でられた。髪を梳くように動く優しい指に堪えていた涙が溢れ出す。
ぼくは今まで蜜蜂とどう過ごしていたんだろう、いつもの通い慣れた道が、突然消えてなくなったみたいだ。気持ちが渦巻いて苦しかった。
帰り仕度をしていた蜜蜂は、アリスに理科の筆記帳を借りようとしていたのを思い出した。
幾分傾いた陽が窓から差し込む図書室、アリスと兄が隣り合った椅子に座っていた。人気は少なく、周りの椅子も疎らに埋まる程度だ。囁き合うふたり。声が聞き取れなかったのかアリスが首をかしげると、兄は椅子を動かして間を詰め、近付いた。アリスは入り口に背を向けて座っているので、蜜蜂からは兄の顔しか見えない。伏せていた睫を上げ、恐らくアリスと目を合わせたのだろう兄の口唇が動く。アリスが頷いた拍子に、髪が揺れて窓から差し込んだ朱い陽を弾く。そのまま項垂れたアリスを慰めるように、兄の指が髪を梳いた。蜜蜂の前では、あんな弱った姿は見せない。見てはいけないものを見てしまったような、妙な気分だ。心の内が騒いで落ち着かなくって、蜜蜂は踵を返した。
どうやって帰って来たのか覚えがない。気がついたら家の前にいた。震える手で鍵を錠前に差し込む。蜜蜂が扉を開くと、物音を聞き付けた耳丸が出迎えて呉れた。利口な愛犬はご主人の浮かない様子に、喜んで振っていた尻尾を下げて哀しそうに鳴いた。
耳丸を連れて自分の部屋へ行く。蜜蜂は寝台に腰掛けて、そのままボスンと後ろへ倒れ込んだ。お伺いをたてるように大人しく待っている耳丸を「おいで、」と手招く。傍らに上がって来た白いふさふさした毛並みを抱きしめて、ようやく人心地ついた。さっきはふたりの親密そうな雰囲気に思わず逃げ出して来てしまった。それはいつも抱く筈の感情と違っていた。弟が兄に持つ他愛も無い独占欲ではなかった。兄が誰かと、たとえばアリスと親しくするのが嫌なのではない。アリスが自分以外の誰かと親しくするなんて、嫌だった。衝突しながらも慕っている兄にさえ、嫉妬のような感情を抱くなんて。他の級友たちよりは自分が一番、仲が良いと思っていた……けれど、考えてみればアリスと自分とは全く正反対と言っても良いぐらい違う。大人びたアリスのこと、兄との方が気が合うのも頷ける。もしかしたらいつも蜜蜂に合わせてくれていたのかも知れない。嫌な考えを次々と浮かべては、慌てて消していく。
……蜜蜂は混乱しているうちに眠ってしまったようで、夕刻になって当の兄本人に夕食だと起こされた。
味も分からぬまま食事を終えて部屋へ戻ると、コンコンと扉が叩かれた。
「何か言いたい事があるんだろう、」
兄だった。
「……別に。」
蜜蜂も、閉まったままの扉に向かって声をかける。
「明日も、図書室にいる。気になるなら見に来いよ。」
どうやら兄は蜜蜂が見ていたのを知っていたようだった。聞きたいことは山程あった。でも聞けなかった。だってアリスが誰と親しくしようと、それは彼自身の自由なのだから。
「今日も図書室、」
「うん、ごめん。先に帰って。」
蜜蜂が「待つ」という選択を初めから拒否するような答え。いつもなら聞き流すような言葉まで気にかかってしまう。
「やあ……」
アリスが図書室へ行くと、蜜蜂の兄はもう席に着いていた。
「昨日は済みません」
気不味くって、睛を合わせられない。
「座って、」
アリスが彼の手で引かれた椅子に座ると、声を潜めることもなく普通に話し出した。周りを見てみると今日は他に誰もいない。
「ちゃんと話をした方が良い。」
話しかけられた声に彷徨わせていた視線を戻すと、真っ直ぐに見詰められる。
「でも、なんて。」
アリスは縋るように見詰め返した。
「有りのままを話せば良いのさ。ぼくも人のことは言えないけれど、もう少し心を開くべきだよ。」
そう言って自嘲気味に微笑った。
「でも……」
「蜜蜂はきみに避けられてるって思うだろうな。」
驚いて、そして不安になって顔を上げると、蜜蜂の兄はアリスの背後を見ていた。アリスが振り返ろうとすると、急に抱き締められた。際どい線まで顔を近づけられる。
「兄さん、」
蜜蜂の声で我に返った。押し返すと簡単に拘束が弛む。混乱したまま立ち上がると、教室の入り口から走り去る蜜蜂の背中が見えた。
「何でいきなり……」
「向こうから見たらキスしてるみたいに見えたかもな、」
アリスは衝動的に手を上げていた。蜜蜂の兄は避けることもせず頬を打たれ、静かに言う。
「まだ分からないのか、好い加減自分の気持ちに正直になれよ、」
廊下に蜜蜂を追いかけるアリスの足音が響いた。
「ごめん気を悪くしたよね。」
何とか下足場で追いついたアリスが息を切らしながら言う
「何が、」
今まで聞いたこともないような冷ややかな声が返った。
「蜜蜂の、兄さんなのに。」
狼狽しながら答えると
「あんな兄で良かったら何時でも貸すよ、」
困ったようなアリスの顔。そんなんぢゃないんだ。ぼくはアリスが兄さんを頼ったのがくやしかったんだよ。
「アリスはぼくのこと鈍いって思っているんだろう、けどそれは違う。」
蜜蜂がアリスの口唇を、親指で拭う。その仕草にさっきの事を思い出し、アリスは慌てて否定する。
「蜜蜂、さっきのは君のお兄さんがふざけてただけで……」
「分かってる、鈍いのはきみだ。」
まだ顔の横にある蜜蜂の手に困ったアリスが、視線を彷徨わせていると
「アリスが好きだ。だからきみのことは何でも知りたいし、きみが他の人と仲良くしてるのは嫌なんだ。例えその相手が兄さんでも。」
いつもと違う初めて見る蜜蜂の顔。声に震えを感じて、アリスは宙に浮いた蜜蜂の手に自分の手を重ねて頬に触れさせた。
「蜜蜂……あのね、さっきようやく分かったんだ。こんな風に触れたいと思うのは、蜜蜂だけだって。」
今まで我慢してたのに、緊張が途切れて安心した途端、目頭が熱くなるのは何故なんだろう。
「アリス、」
睛が潤んで蜜蜂の顔が良く見えない。蜜蜂の手が優しく頬を拭う。
初めてのキスは、涙の味がした。
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